直観と妄想――その違いを知る
直観と妄想――似ているようでいて、実はまったく異なるものです。
直観には、恐れが伴いません
直観というものは、恐怖を連れて訪れることがないのです。
すっと、静かにやってきます。「こちらへ進もう」「これはやめておこう」――ただそれだけ。感情の揺れも、頭の中で繰り返される思案も、そこには付随しません。昔から言われる「虫の知らせ」とは、まさにこのことでしょう。ささやかな感覚でありながら、結果は思いのほか大きいものです。時には映像として現れることもありますが、やはり感情を伴うことはなく、静かに現実となっていきます。
一方、妄想には恐れがつきまといます。悲観的な筋書きが次々と浮かび、思考が堂々巡りを始める。「こうなったらどうしよう」「やはりだめだったか」――そうした映像が浮かんだ時、それは脳が作り出した一つの劇に過ぎません。真実ではないのです。
感情が生み出す、厄介な劇
人の脳は、自らが変化することを何よりも嫌う性質を持っています。
たとえば、幼い頃に「意見を言うと人に嫌われる」と学んだ人がいるとしましょう。大人になっても、何かを主張しようとするたびに、強い恐怖がこみ上げてきます。言った後には罪悪感も残ります。そして、意見を述べた後に何か好ましくない出来事が起きようものなら――それがどれほど些細なことであっても、脳は「意見を言ったせいだ」と結びつけてしまうのです。
これこそが、感情が仕立て上げる劇です。
実際には、相手がたまたま機嫌を損ねていただけかもしれません。もとより相性が合わなかっただけかもしれませんし、あるいは意見をはっきり言わないあなたに、かえって苛立っていただけかもしれません。けれども脳は、「自分を変えないため」に、「意見を言ったせいだ」という筋書きを選び取るのです。
こうしたパターンは、幼少期の家庭環境を無意識のうちに再現しようとする働きであることも少なくありません。たとえば、支配的な相手としか関係を築けない方が、繰り返し同じ性質の相手を引き寄せてしまう、ということがあります。「この人のもとを離れては可哀想だ」という感情が、まるでプログラムのように作動しているのです。ですから、心から幸せを望んでいても、その感情の劇がそれを阻んでしまう。「どうしてわかってくれないの」「精一杯やっているのに」――そうした思いが生まれるのも、二人がそれぞれの感情の劇に絡め取られているからにほかなりません。感情が見せる劇とは、人と人とを結びつけるのではなく、むしろ引き離すものなのです。
興味深いことに、こうしたパターンに気づき、感情の癖が和らいでいった方は、思いがけず良いご縁に恵まれたり、長らくこじれていた物事が驚くほど滑らかに動き出したりします。中には、思いがけず幸運に恵まれ続けるようになった、という羨ましいお話もあるほどです。感情の劇から一歩離れた時、初めて本物の直観が聞こえてくるのでしょう。
では、どうすればよいのか
感情の癖を完全になくす必要はありません。
まずは「気づく」だけで十分です。「これは感情が見せている劇かもしれない」と。
「良いことをしようとすると怖くなる」「慎重になりすぎて、あれこれと考えが止まらない」――それは直観ではなく、変化を止めようとする感情が強く表れているだけなのです。そして、そこから湧き上がる「恐ろしいことが起きるに違いない」という映像は、妄想であって、事実ではありません。
気づいたからといって、すぐに消えてなくなるものではありません。けれども、「これは感情であって、事実ではない」と知っているだけで、その劇にすっかり呑み込まれずに済むことが多いのです。それほどの心得だけでも、確かな支えとなります。
仕組みを知ることよりも、体験すること。理論よりも、感覚を大切に。それがすべてです。
どうか、脳が作り出す劇に、あまり振り回されませんように。