そのイライラは、努力の証
人というものは、自らが一生懸命に取り組んできたことに対しては、なぜか厳しくなってしまうものです。他のことには「まあそんなものか」と受け流せるのに、そこだけはカチンときたり、ムッとしたりする。あの感覚を、ご存じではないでしょうか。
先日、こういうお話がございました。ある方が、「物事を判断しない」「人の欠点を許す」ということは、比較的できている。さまざまなことに寛容でいられる。それなのに、「悟り」ということについてだけは、どうしても気になってしまうのだと。
ご自身よりも修行が浅そうな方が「悟った」とおっしゃっているのを見ると、「それは違うのではないか」「あのレベルでそう言えるはずがない」と思ってしまう。けれども、そのようにお思いになるご自分を、責めてもいらっしゃるのです。
そのイライラは、あなたが本気で取り組んできた証しです
それは、責めるべきことではございません。
むしろ逆なのです。そこに苛立ちを覚えるということは、それだけその道を真剣に歩んでこられた、ということにほかなりません。いい加減に取り組んでこられた方であれば、そもそもムッとすることさえないものです。
その苛立ちは、あなたが一生懸命に取り組んでこられた証しです。素晴らしいことです。どうか、ご自分を責めないでください。
これは、どのような分野にも通じるお話です。長年かけて積み上げてきた技術を、経験の浅い方がさも当然のように語っている。積み重ねてきた分野で、付け焼き刃の方が自信満々にふるまっている。そうしたことに苛立ちを覚えるのは、当然のことでしょう。
人が気になるのは、ご自分をもっと認めたいというしるしかもしれません
では、どうすればよいのでしょうか。
このように考えてみてください。「あの方に腹が立つのは、私がその道を本気で歩んできたから。まだ満たされていない部分があるからこそ、気になるのかもしれない」と。
つまり、苛立ちのエネルギーを、ご自身へと向けてさしあげるのです。さらに精進するという方向もありますし、「これまで積み重ねてきたことを、もっと誇りに思ってよい」という方向もございます。
このようなお話をしていますと、「なるほど、自分はもっと認めてほしかっただけなのだ」と気づかれる方が多いのです。興味深いことでしょう。一生懸命に取り組んできたのに、誰にも気づかれていない気がして、だからこそ人に示したくなる、認めさせたくなる。そういうことなのです。
そして、ご自身をきちんと誇りに思えるようになると、人のことが気にかかる部分は、自然と減っていくものです。誇りを持つことと、自らを律することは、決して矛盾いたしません。むしろ、自分への敬意が深まるほどに、人への寛容さもまた増していくのです。
「まだまだ」より、「ここまでやってきた」を大切に
少し辛口に申し上げます。ご自分のしてきたことを認めることを、恐れていらっしゃる方は、意外と多いものです。「まだまだだ」「どうせ自分など」と言いながら、ご自分で自分の価値を棚上げしてしまっている。
けれども、それは結局のところ、他人軸で生きることになってしまいます。誰かに認めてもらわなければ不安になる、誰かが自分より劣っていると安心する、誰かの言葉にいちいち心が揺れる――根っこは、すべて同じなのです。
黙って積み上げてこられたもの、誰にも気づかれなくてもこつこつと続けてこられたこと、それらはすべて本物です。そこには、どうぞ誇りをお持ちください。
さらに深めていかれれば、きっとある日、「ほう、悟られたのですね、素晴らしい」と、笑いながらおっしゃれるようになることでしょう。
人は皆、日々「わたし」というものを、互いに見せ合いながら生きているのです。そこに優劣などございません。皆、人間なのですから。それでよいのです。どちらの在り方も。